(27)「本人主体」の支援を考える

前回は「いんくる」がスタートするお話をしましたが、いんくるがスタートしてすぐにある印象的な出来事が起きました。

北海道が推進した総合相談支援ですが、その理念の根幹は「本人主体の相談支援」で、いんくるでもそれを全面的に支持していました。しかし、現実の福祉現場は長い措置の歴史の中で支援は「弱いものに施される」ものであり、どうしても支援する側の意向や価値観が色濃く投影されることが当たり前になっていました。特に知的障がいや精神障がいなど判断や意思決定のプロセスに支援が必要な場合には本人の意向は尊重されず、家族や支援者の意志に基づくことが一般的だったのです。

そんな中、いんくるがスタートして数カ月後に所轄部署である釧路支庁の課長から呼び出しがかかりました。それは、ある相談支援を巡って、事業所へ情報を提供しなかったことへの苦情が支庁に寄せられたためでした。総合相談支援センターは関係機関と連携を取って支援にあたるとあるのに、いんくるは相談があったことを関係する事業所へ照会をかけなかった、関係者軽視ではないか?というものです。私は当事者に相談について関係する事業所に情報提供するかどうか確認をし、そのうえで、当事者が望まなかったため情報を提供しなかったことを説明しました。しかし、関係者は納得してくれませんでした。知的障がいの人は判断できないから、周囲の人たちが代わりに判断してあげるのが支援であり、本人が主張することを何でも聞いていては支援にならない。こんなに大変な人だからこそ、周囲がしっかり情報を共有し合って正しい支援をしなければならないというのです。そして、とどめの一言は「いんくるの支援は、本人さえよければそれでいいっていうやり方だ」でした。

最初は関係機関と波風を立てたくない気持ちもあり、説明しても聞いてくれそうな姿勢もないことから、かしこまって聞いていましたが、ここまで言われて「これは、最高のほめ言葉だ」と吹っ切れました。「本人がよければそれでいい」という評価はそれがたとえ非難の声だとしても間違っていないことを証明してもらえたわけです。呼び出されて複数で言いたい放題批判されたことは決して気持ちのいいものではありませんでしたが、自分がこれから向き合うべきものが何かは明確になった出来事でした。

それから15年近く経ち、理念としての「本人主体」はずいぶんと浸透したように思います。実際に私がここ数年携わっている相談支援従事者研修やサービス管理責任者等研修でも重点的に取り入れています。しかし、支援の場面で本人の表現や表出に応じて意思表示を手伝ったり、その表現に寄り添うことで次を見極めたり、支援の内容を本人にわかるように説明をして納得しているかどうか確認するなど、どれだけ具体的な支援行動として反映できているかは怪しいのが実情です。

本人主体は、一見危うかったり、不安定になったり、回り道をすることもあります。それに対して、支援者が「こうした方がいい」と思うことが結果として正しいこともたくさんあるでしょう。でも、大事なのは回り道をしても、危うくても一人ひとりがその人なりの「正しさ」を見つけようとすること、そして自分の生き方を獲得することです。それは、誰かの中にある「正しさ」を突き付けられるたり、押しつけられるのではなしえないと思うのです。能力の違いがあっても、対等な立場にたってその人なりの生き方や正しさを探し出すお手伝いをすること。それが「支援」の本質なんだと私は思っています。そして、本人主体の支援を追求することは、同時に実は自分の生き方や正しさをいつも探し続ける道でもあると日々痛感しています。