(18)お金のこと その1
物語は法人のターニングポイントである2003年あたりを行ったり来たりしています。これまでポジティブに過去を振り返っている内容がほとんどでしたが、今回は意識してちょっと苦労話と思われるようなネタを披露します(今だからできるような気がします)。
NPOの苦労といえば「お金」。ご多分にもれずネットワークサロンも思い起こせばいつも貧乏でした。2003年の支援費制度スタート以降は利用者の人数、サービスの時間、回数などで積算されて多くの人たちが利用してくれるとそれだけ収入にも反映される仕組みがはじまり、事業の中心部分が非常に安定化したのですが、それ以前の初期のころはお金を獲得するための努力は絶えず要求されていました。
それ以前の主な収入源は作業所(今の地域活動支援センター)運営のための補助金で年に4回に分けて先払いの仕組みになっていました。いついくらだけのお金が入るということがわかっていたので計画的に考えることができるのは楽でしたが、今とは違い利用者さんの数や障がいの状況がまったく収入に反映されないという点では運営は簡単ではありませんでした。次々と利用者さんが増えても補助金が増えることはありません。しかも、障がい程度が重度であるまたは複雑な困難を抱えているなど他に行き場のない方たちを受け入れても一切補助金には反映されません。補助金で想定されている支援以上のケアが必要になりスタッフも増やし、分場を設けるなど経費はかさんでいきました。さらに、そうした行政からの補助事業以外にも制度の隙間を埋める事業や先駆的なモデル事業など必要に応じて自主事業も抱えていきました。要するに地域のニーズに応えるほどに自分たちの首を絞めるように貧乏になる仕組みだったのです。
その課題に対して主な解決策は「助成金出しまくり作戦」でした。とにかく、年に10本は下らないくらいのいろんな助成金を申請していました。それでも、出したからといって確実にもらえるわけでもなく、おそらく当たる確率は野球の打率くらいだったと思います。しかも、かなりの水ものであてにならないのに、ものによっては企画や予算などを含めて10枚以上の書類の作文をしなければならないものもあり、かなりの労力も費やしました。そんな労力をかける割に助成金は事業対象のものがほとんど人件費に充てることができないのも大きなネックでした。助成金が当たってもやらなければならない業務がかえって増えてしまうことにもなりました。(おかげで自分たちの理念や事業の目的や内容そしてそれにかかるお金を表現して、人にわかるように説明するための表現については相当にトレーニングされるというおまけがついてきました)
結果として、2003年の支援費が始まるまで私自身の給料(らしきものも含めて)を考えることはできませんでした(私の保険証の番号は19番でした)。しかし、私自身は住む家があり、数年前に離婚したことと障がい児を含めて3人の子どもがいたことで、子どもたちの手当で何とか食べていくことができたので困ることはありませんでした。(公的な手当て(出所は税金)で生活していたこの時期をひそかに『公務員時代』と思っています)。
『そこまでして、どうして?』と思う人もいるかもしれませんが、私自身は当時もそして今も麗しい自己犠牲の経験だとか涙ぐましい苦労をしたという認識はありません。NPOとして必要なことをするために実現可能な妥当な選択をしただけだと思っています。限られたお金をどう分配するかということを考えた時にたまたま必要としていなかった人が後回しになる。または組織が不安定な時期に権限と裁量を持っている立場の者が一時的にリスクを負う。そんな仕組みによってNPOが成立し、継続し、育っていくことは当然のことです。むしろ、あの時期に貧乏になることを回避していたら、きっと地域で生活するためのニーズが掘り起こされて、必要なサービスが確保されるような今の釧路の姿はなかったと思っています。
そんな貧乏くじを引くような金欠状態も支援費が始まりようやく終止符を打つはずでした。しかし、そうはいかないのが世の常。昔の苦労話っぽくあまり面白くないかもしれませんが、この続きは次回に続きます。