(12)学び多き2年半~家庭生活支援事業
2002年10月から2005年3月までの2年半、釧路市役所児童家庭課からの委託事業で取り組んだのが「家庭生活支援事業」です。早くから地域に根差した子育て支援活動を地道に積み重ね、行政を含めた関係者とのネットワークがあってこそ受託できた今となっては貴重な子育て支援事業でした。釧路は地域経済の困窮から子育て環境は決して恵まれておらず、子どもの虐待が多いなど子ども家庭を取り巻く支援体制の強化はずっと課題となっています。そんな中で、緊急雇用対策事業を活用して児童家庭課が考えだして、ネットワークサロンに委託をしてくれました。これは「支援員」というスタッフを私たちが雇い、児童家庭課からの依頼に基づいて家事や育児が著しく困難な家庭へ家庭訪問をしてお手伝いをするというもので、もっと簡単に説明するとネグレクト家庭への訪問支援とも言えます。当時から親子の家で親子のフリースペースを開放していたこともあり、たまり場(ドロップイン)と訪問事業(アウトリーチ)を連動して子育て支援を展開するスタイルは先進的で理想形であると、かなり他の地域からも注目されました。
ところが、実際はそうは何でも物事はうまくいかず、支援に対する考え方を市役所と共有できなかったり、緊急雇用対策事業の特性上、雇用するスタッフは5ヶ月間の期限付きとして半年経過すると次の雇用をしなければならないなど、運営上の困難性もあり、事業自体は思うように成果を上げることはできず2年半のモデル実施で受託は終了してしまいました。しかし、本来的な事業そのものよりもこの事業を2年半実施したことでの副産物は実に多かったと私は思っていますので、以下にご紹介します。
①求人を出すことを覚えた
緊急雇用対策の事業だったため、必ずハローワークに求人を出して、採用試験をしなければなりませんでした。それまで、求人を出したことのない私たちにとって大変でしたが新鮮でした。求人を出すといろんな人材と出会うことができることを知りました。2003年4月採用に向けて多くの求人を出せたのもこの事業のおかげです。
②これを機会に仲間入りしたスタッフたちがいっぱい
2年半で5回×5名の支援員を雇用することになりました。その間、期限である半年経過後もネットワークサロンに残りスタッフとして活躍する人がたくさんいました。支援員でのいる間に各事業所のお手伝いをしてもらうことでお互いにマッチング期間になったようです。
③「支援」の本質を考えた
家庭生活支援事業で訪問する家は極めて家事育児が困難な事情を抱えています。言い換えると私たちの常識が通用しない環境だったりします。たとえば、ご飯は一日三回食べるとか、家は通常これくらいは片づけておくとか、母親はふつうこれくらいのことはするとか、そんな常識が通用しないことがあるのです。そんなときに「この母親はとんでもない」「こうあるべきだ」という価値観を持っていては、「支援」という土俵にも上がれないという実態に直面します。まずは、非常識だろうが自分の当り前からかけ離れていようが、相手の価値観や生活文化を受け入れ、理解し、尊重して初めて「支援」のスタートラインに立たせてもらえることがわかりました。
考えてみると、今のネットワークサロンの業務のほとんどが利用してくれる人たちの人生あるいは生活の中に私たちがお邪魔させてもらって、お手伝いをする「地域生活支援」の仕事です。そういう意味では誰のものでもないその人の人生や生活にお邪魔させてもらっている意識を忘れずに、まずは尊重する姿勢を忘れちゃいけないなぁと家庭生活支援事業の経験を思い出すのでした。