公立大学でゲスト講義をしてきました

気付いたら今年も年の瀬になりました。なかなか寒くならないと思っていた釧路も急激に寒くなり、珍しく年内に雪も積もりました。11月から12月にかけて市内でもコロナやインフルエンザが流行して、ネットワークサロンの事業所でもサービス提供を一部制限することもありました。

ただ、暮らしの場であるグループホームは休むことができないので、限られたスタッフが多少体調が悪くても連日支援にあたるような状況もありました。「生活支援」は24時間365日です。人手不足もありますが、こうした事態においては生活を守ることが最優先となり、職員の努力や協力なしには事業所の継続はありません。

労働者を守ることが会社として必要なのですが、当たり前の生活を支えようと思うと、そうはいかないこともあり、仕事として福祉を行うことの難しさを感じます。一方では自分も在宅で全介助の娘のケアをしていることで、家族にはお休みがないという実態も痛いほどわかります。特に体調が悪い時ほどサービスの利用ができないので、他の人に頼れず、負担は家族にかかるという苦しさがあります。

人の生活を支えることは本当に難しいです。福祉サービスの充実も大切ですが、仕事としてのサービスと同時に仕事ではない支え合いのようなものが広がることが大切だなと思っています。でも、それがボランティアかというと、そうでもない気がします。新たな発想や文化が必要だろうと感じています。

さて、そんなヒントになりそうな出来事がありました。釧路公立大学でゲストスピーカーとして講義をしてきたことと、その後の先生や学生さんたちの反応が興味深かったので報告します。

見えない「当たり前」

国際開発経済論のゲストでしたが、実践者として社会的排除にある人たちに対するサポートの活動という点で声がかかりました。

最近、講演や講義などんはほぼ出ていかなくなったのですが、地元の大学とのつながりは大切だなという思いもあり、また、こうした持ち込まれた課題というものに向き合うと自然と自分なりの気づきや整理ができる経験もあるので、引き受けることにしました。

11月中に担当の先生と直接お会いし、意見交換をして、学生さんたちに何を伝えるのがいいのか考えました。結果として、ここ数年で自分なりに興味を持って課題意識を深めてきた「社会的優位性」について学生さんにも分かるように伝えようと思い至り、平等な社会は自分たちがつくる~見えない「当たり前」について考えてみるというタイトルにしました。

マイノリティ要素とマジョリティ要素

世の中にはマイノリティという種類の人とマジョリティという種類の人に二分されるわけではありません。(10月から始まった休眠預金事業でもこのあたりがメインテーマです)誰もが、何かしらのマイノリティの要素を持っていて、また何かしらのマジョリティの要素も持っています。つまり、様々なマイノリティやマジョリティが混ざり合っているといってもいいと思います。マイノリティの要素が多い人もいますし、マジョリティの要素が多い人もいて、一定の側面で要素が強いと「〇〇マイノリティ」と言う名前がついて、と認識されがちですが、誰もが無数のブレンドと言えます。

そして、それぞれがその人のスタンダードで、優劣もいい悪いもありません。ただし、それが社会的な価値観や情勢によって、すんなり受け入れられたり、理解されたり、話が通じる有利な面(マジョリティ側面)と、拒否されたり、理解されにくかったり、誤解をされたり、話が通じない、さらには差別や偏見の対象になるような不利な面(マイノリティ側面)が生じます。今回の休眠預金の事業では、セクシュアリティの側面と認知や発達の側面の両方でマイノリティ要素を持っている人を対象としています。今、ちょうど、当事者とつながるために死にトリのこえサーチから呼びかけをしていますが、両方のマイノリティ性を持っている人だけではなく、他の要素においてもマイノリティ要素があると書いてくれる人が複数います。

マイノリティ理解の限界

ポイントはたまたま持っている要素によって、知らないうちに社会的に不利益になってしまうことです。例えば、今の社会は心身に障がいがない多数派の人たちが不便がないように作られているので、たまたま手足が不自由な人が生活しようとしたら、いろいろな不便が生じます。心身機能に着目したときにマイノリティ要素があり、それによって不都合を生じる人を「障がい」というカテゴリーにして福祉制度がつくられています。

また、最近ではセクシュアリティにおいてマイノリティ要素を持つ人をセクシュアルマイノリティ、LGBTQなど、わかりやすい名前をつけて、理解や支援を促す施策も進められています。それ以外にも外国人や日本固有の社会課題である部落差別やアイヌ民族など、特定の属性で不利益が起こることがあります。

これらは人権教育の中で「差別はいけない」「マイノリティ理解」「弱い者には優しく」などという理解啓発として展開されていますが、私はこの既存のマイノリティ理解という方向性には限界があり、同時に差別が助長されていくリスクもあると思っています。

死にトリの経験談にも、マイノリティの属性がつくことによって、理解をされるというより差別を受けることやより排除される思いが届くことも少なくありません。

自分のマジョリティ性に気付く

そこでポイントになるのがマジョリティが自らのマジョリティ性に気付くことです。今回のゲスト講義のテーマの「見えない当たり前に気づく」というのはそういった意味です。

別の言い方では「社会的優位性」とも表現できますし、「知らないうちにはいているゲタ」とも言えます。優位性と聞くと、「別に私は優遇されたり、特別有利なわけではない」と思われるかもしれませんが、多数派としていることで〝知らないうちに″得ている優位性なので、本当に気づかないのです。(これが、重要なポイントです)

この見えない当たり前は、社会の構造、制度的の不備、歴史・文化の中でできた差別の構造によって私たちの生活や考え方に練りこまれて、自分たちの一部になっていると言ってもいいと思います。マジョリティ要素が多いとマイノリティで起こっていることは見えないことや、別の世界のことになりがちです。

私も長女が生まれるまでは「障がい」を持つ人がいることは分かっていましたが、どんな状況でどんな思いで生きているのか、全く知りませんでした。それが、自分の問題になると、いろいろなおかしいと思うことがたくさんあり、でもそれを周囲の人には理解されず、「障がいがあるのに頑張っている」とか「かわいそう」という他人事のようなまなざしをうけることが多くあります。

また、子どもの虐待についても問題としてあることは分かっていましたが、虐待がなぜ起こるのか分かりませんでした。でも、スクールソーシャルワーカーになって身近に関わるとその背景には、自分を含む社会の問題が見えてきます。すべてのことは自分と関係ない問題ではなく、地続きのことであることに気付いていきました。

私たちは知らないだけだったんだと。知らないとどういうことが起こるかというと、「努力が足りないんじゃないか」とか「もっと頑張らないと」とか「支援を拒否する」などといった自己責任論が顔を出し、マイノリティへの責任転嫁が起こることがあります。自分たちがはいているゲタに気付かず、余裕があるからできることが余裕がなくてできない人への批判になることがあります。

見えない当たり前を見てみたら

今回は、そんな見えない当たり前を点数としてわかるようなチェックリストを作って、説明していきました。見えない当たり前は、すでに持っている側(もともと持っているほど)気付きにくいので、それを見えるようにしたのです。私たちがまずできることは見えない当たり前に気付くことだと思うからです。これは、ある意味とても難しく厄介なことなので、話がどんなふうに伝わるか不安もありました。

講義は学生が大勢だったことや、時間の制約があり、当日の質疑応答はなかったのですが、後日先生からリアクションペーパーのまとめが送られてきました。送ってくれた先生から「示唆に富んだ感想ばかりで、とても勉強になりました」とのコメントがあり、恐る恐る読んでみると、本当に学生さんたちがいろいろなことを感じ取って、考えたことが伝わってきました。自分では気付かない優位性に気付いたいう感想ももちろんですが、自分の漠然と感じていた生きづらさの正体が分かってすっきりとした学生さんや、理屈はわかったけど、当たり前が強く刷り込まれてしまっているので難しい問題だという意見もありました。

当たり前を問い続けること

その後、先生を通じて、活動への参加も呼び掛けてもらったところ複数の学生さんから連絡があり、現場への見学や参加につながりました。

社会的優位性の理解という観点では支援職向けにはこれまでも伝えてみたことがありましたが、なかなかピンとくる感触がありませんでした。今回、学生さんの反応を見て、アイデンティティへの揺らぎがある学生であり、有名大学ではなく北海道の端の地方都市に、第一志望で来るというより滑り止めで入学するような学生が多いような大学だからこその反応かもしれないと思います。そういった意味で、地方とか若者とか、自分が何者か揺れているような不確かな状況こそ、今の社会の課題を解決していく潜在能力があるのではないかと感じた出来事でした。

最後に、講義の資料の最後にお伝えした。思想家ハンナ・アーレントの言葉を引用します。

「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。」
「考えるのを止めたら、人間じゃなくなる」