(22)クローバー誕生から思う
2008年に地域の人たちと創設した冬月荘が全国的にも注目されたり、今ではコミュニティホーム大川が複合型の地域拠点としてありますが、実はネットワークサロンはできた当初からいつもごちゃまぜでかっこよく言うと「ユニバーサル」な取り組みは随所にあったのです。ことさら、それを「福祉のユニバーサル化」なんて言葉では表現していませんでしたが、クローバーがもともとできたときのようなエピソードがたくさんあります。
それまで暮らす場の支援としては2002年からスタートしたグループホームである愛国西のポレストの一つ。食事と日常的な相談などの支援程度で身辺のケアは不要な支援内容でした。そこで、ニーズとして浮上したのが中標津高等養護学校の卒業を控えた女子二人の生活の場でした。高等養護の3年間、中標津の寄宿舎で平日生活し、週末2週に1回のペースで自宅に帰省する生活リズムが親子共々定着し、卒業後も同じようなリズムで生活できないものかという相談でした。時期を同じくして中学時代からお付き合いのあった隣町の女子が市内の高校に進学することになり、ちょっと見守りがついた下宿を探しているとの相談も受けたのです。他にも一人暮らしが心配な若者も相乗りし、それなら「それぞれに必要なケアがついた下宿」をやろうということになり、日赤病院すぐのもと下宿の建物にめぐりあったことで「コミュニティ下宿クローバー」が誕生しました。当時はケアホームという制度はなく、またグループホームの認可は制限が厳しかったため、簡単に増やすことができなかったので、ケアは下宿にホームヘルパーが入るということで対応することになりました。また、宿泊のシフトも登場。夜間体制付きグループホームの前身となったのです。
ただし、制度が整っていなかったからこそ必要に迫られてごちゃまぜの下宿ができたのは事実です。女子高生と高等養護を卒業した仲良しの二人、そして軽度の知的障がいがある20代、それに加えてその年に九州から求人を経て就職した30代のスタッフも4月当初は一部屋を使っていました。それに泊まりのスタッフですから、愉快で不思議な家族風な空間でした。夕方は自宅帰り途中の数名も預りのために立ち寄り、夕方のスタッフが複数いると、ますます雑多でありながらアットホームな場となっていました。今ならグループホームをはじめとして便利な制度ができたからこそ、そうした必然的にごちゃまぜするチャンスは少なくなりました。運営面は確かに楽になったかもしれませんが、なんだかちょっとさみしい感じがするのです。
そうやって思い起こしてみると、柏木集会所に本部ができて間もない頃には今でこそ発達障がいだとはっきり分かるような青年がパソコンの仕事をしに来てくれたり、療育サロンのころにもADHDの大人の方がパソコンなどの環境整備のお手伝いに顔を出してくれていたりして、当り前に一緒にいたことを思い出します。また、かつてサロンの交流会といって1ヶ月に1度夜にみんなで集まって夕食を食べるような企画をしていたころにも、いろんな人たちがごちゃまぜになっていました。
そう考えると、これだけ社会にはいろんな人たちが暮らしているのに福祉という場はなぜ同じような状態像の人たちを集めて、支援という名のサービスを提供するような仕組みになってしまったのだろう?と素朴な疑問がわいてくるのです。長女が4歳くらいの時にこの先に歩む人生が「重度の障がい」という現実の前にあまりにも決められていることに愕然としました。だからこそ、少しでも長女が自分の人生の選択肢を広げられるような地域にしたい、自分がいなくても長女らしい人生を誰かの手を借りながら主体的に生きていけるような社会にしたいと思いが、これまでの活動につながってきました。
それから20年余りたった今、結局は福祉サービスと自宅の往復の生活になっている長女を見て、どうしたら人生のチャンスが広がるのだろう?と自分自身に問いかけ続けています。